日々何気なくすごしていると、自分がこうして普通にblogを更新していること、視力は悪いながらもキチンと物を見ることができること、ガニ股ではあるが歩くことができること、音楽を聴くことが出来る聴覚をもっていること、etc・・・・・
全く当たり前の事である故に、そのありがたみを忘れてしまっている事が多い。
ただほとんどの人が当たり前のように備わっている事が不幸にして先天的にしろ、後天的にしろ失っている方もいる。
そして、そういうハンデを負っているにもかかわらず、えてしてそういう人に才人が多い。
きっと、ハンデがあるぶん、ほかの感覚が研ぎ澄まされるのであろう・・
今回はそんなハンデを背負った才人の中の一人のピアニストを紹介します。
<大><太>Michel Petrucciani太>大>(1962年12月28日 - 1999年1月6日)は、フランス出身のジャズ・ピアニスト。先天性疾患による障害を克服し、フランス最高のジャズ・ピアニストと評価されるほどの成功を収めた。
その独自性の強いスタイルはビル・エヴァンスらの影響を受けており、また一部ではキース・ジャレットとも比較される。
今から10年前に他界されている。
以下Wikiからの引用
「ペトルチアーニはフランスのオランジュでイタリア系フランス人の家庭に生まれた。遺伝的原因から、生まれつき骨形成不全症という障害を背負っていた。この障害のため、彼の身長は成長期になっても1メートルほどにしか伸びず、骨はもろく、またしばしば肺疾患に苦しめられた。同年代の少年が熱中するようなスポーツに加わることはできず、ペトルチアーニの関心はもっぱら音楽に向けられるようになった。ペトルチアーニは特にデューク・エリントンの音楽を好み、ピアニストになりたいと願うようになった。そこでクラシック・ピアノを習い始め、何年も練習を続けたが、その一方でジャズから心が離れることはなかった。
ペトルチアーニは13歳で最初のコンサートを迎え、18歳の時に初めてトリオを組んだ。彼の骨は非常にもろかったので、演奏席までは他人に運んでもらわねばならなかった。またペダルに足が届かないためペダル踏み機を使わねばならなかったが、腕は標準的なサイズであったことで、鍵盤を弾くことができたのである。その天才的な演奏ぶりは広く注目を集めた。
1982年、ペトルチアーニはアメリカへ渡った。アメリカで彼はチャールズ・ロイドのバンドに参加するなど、いっそう積極的に演奏に取り組み、1980年代~1990年代を代表するジャズ・ピアニストの一人となった。1986年にはウェイン・ショーターとアルバムで共演、また晩年のディジー・ガレスピーとも共演している。
ペトルチアーニはフランス人としては最初に、名門ジャズレーベルのブルーノート・レコードと契約したピアニストである。1994年、レジョン・ドヌール勲章を授与、2002年6月にはパリ18区の広場が「ミシェル・ペトルチアーニ広場」と命名された。
ペトルチアーニは3人の女性と関係を持った。 最初の結婚はインディアン・ナバホ族出身のエルリンダ・モンターニョ。2度目の結婚はイタリア人のピアニストジルダ・ブッタ(Gilda Buttà)。ペトルチアーニは2人の息子の父親となったが、アレクサンドル(Alexandre)は父親と同じ障害を持って生まれた。
ペトルチアーニはイタリア語をとても流暢に話すことができたため、イタリアでのコンサートではアナウンスを自らイタリア語で行った。
ペトルチアーニは、若い頃から体質上「寿命は20歳程度まで」と言われていた身だった。実際にはそれよりはるかに寿命を長らえて活躍したが、ツアー先のニューヨークで急性肺炎を起こして死去した時は、36歳の誕生日から10日足らずであった。彼の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地内、フレデリック・ショパンの墓からほど近い場所に葬られた。」
YouTubeでの動画での演奏は、音だけを聴いていると、そんなハンデのある人とは微塵も感じさせない素晴らしい演奏。
普段、五体満足でいることのありがたみを忘れがちであるが為、彼らの足跡を胸に刻み、常にハングリー精神を忘れずにいたい。
